Brand Story 創業・透析剤開発の歴史
創業
1937年 扶桑薬品工業の前身である
「大和(やまと)商会」誕生
扶桑薬品工業の歴史は、大阪市南区鰻谷中之町(現:大阪市中央区)に設立された間口二間の小さな会社からはじまります。
1937年3月25日、後に扶桑薬品工業の創業者となる戸田幸平と林原次郎の二人の岡山県人によって、大阪市南区鰻谷中之町(現:大阪市中央区)に「大和商会」は設立されました。
当時の大和商会は、たった一台のリヤカーを輸送手段に、国産化が始まったばかりのブドウ糖を菓子業界に販売する会社でした。しかし、創業間もなく日本は戦争へと突入し、戦争が激しさを増すごとに大和商会の状況も厳しくなりました。さらに、盟友 林原は家業のため岡山へ帰郷することとなり、創立間もない大和商会の未来は戸田幸平一人に託されました。
戦乱の中、メーカーへの
業態変更に活路を求める
政府による経済統制で販路が狭められるなか、戸田は販売会社からメーカーへの業態変更に活路を求めました。
1942年にブドウ糖が一元配給統制になったことを受け、ブドウ糖を原料とする注射剤の製造へと転換を図ります。そして、これを機に社名を「扶桑産業株式会社」に改めました。「扶桑」とは「大和」と同じく日本の別名であり、「扶桑」の言葉には日本から世界へ貢献する想いが込められています。
その翌年の1943年には、東成区東今里に今里工場を竣工し、ブドウ糖を原料とする注射剤の製造を開始しました。
ここに扶桑薬品工業の医薬品製造の歴史がはじまります。
今里工場が軌道に乗り始めた矢先の1945年3月、大阪大空襲で鰻谷の本社を焼失。1948年4月には戦中戦後を支えた今里工場が隣で起こった火事により全焼しました。しかし、幸いにも増産用に今里工場の向かいに取得していた今里第二工場にて、半年後には生産を再開することができました。
1949年 扶桑薬品工業の誕生
1949年、現在の社名である「扶桑薬品工業株式会社」に社名変更。
たび重なる苦境を乗り越えた戸田は、医薬品製造に未来を賭けることを決意しました。
扶桑薬品工業の社章のぶどうは、創業以来ゆかりの深いブドウ糖を象徴するとともに、構成員の円満な人格、玲ろう純真な品性と強固な団結をシンボライズしています。
また、ぶどうの象徴とも言える紫色は、古代から高貴な色として尊ばれており、大切にされてきました。当社は、高貴から転じて「信頼」や「安定」をイメージさせるこの紫色をコーポレートカラーとして使用しています。
透析剤開発の歴史
医薬品事業の拡大
今里工場でのブドウ糖注射剤の製造からスタートした扶桑薬品工業は、1957年3月、今里工場の4倍の広さをもつ城東工場を竣工し、さらなる発展を目指します。1964年4月には京橋工場を竣工し、注射剤に加えて錠剤やカプセルなどの内容剤分野にも事業を拡大しました。
透析剤の開発を決意
― 救える命を見過ごせない ―
順調に事業を拡大していくなか、透析療法が扶桑薬品工業に大きな転機をもたらします。1950年代、日本は透析療法の黎明期にあり、医療の現場では透析液の製造を研究する製薬メーカーを求めていました。
東京大学医科学研究所の稲生綱政先生らは尿毒症で亡くなる人達を救命するため、「朝鮮動乱に於ける急性腎不全の治療」の英文のレポートをもとに手づくりで透析剤を作製していました。しかし、手づくりでは限界があるため、いくつかの輸液剤メーカーに開発依頼をするなかで、扶桑薬品工業にも声がかかったのです。
稲生綱政先生から透析液の開発を求められた戸田は、医療の発展に応えるべく、当時未知の領域であった透析剤の開発を決意。濃厚な液を作ることから始まった長年にわたる研究の末、1964年にわが国初の透析液「人工腎臓潅流原液”フソー”」が薬価基準に収載されました。
製造承認が下りてから薬価基準に収載され販売が開始されるまでの数年間は、「救える命を見過ごすことができない」と、病院の要請に応えて透析剤を無償提供し続けていました。
透析剤のパイオニアとして、
患者さんに寄り添う透析剤を開発
扶桑薬品工業は透析剤のパイオニアとして透析剤の開発・製造だけではなく、透析療法の普及・発展にも取り組んできました。当時未知の領域であった透析療法を広めるため、先生方のご協力のもと1968年(昭和43年)には現在の一般社団法人日本透析医学会(会員数:約18,000人※1)の前身となる人工透析研究会を立ち上げました。
これにより透析療法は大きな発展を遂げ、“死を待つ”しかなかった透析患者さんは現在では最長52年1ヶ月※2もの間、透析治療により命をつないでおられます。
また、扶桑薬品工業は新しい透析剤の開発で透析療法の発展に貢献すべく、ラインナップの拡充に取り組んできました。
新しい透析療法の普及、新たな薬剤の発売、機器の高性能化など、現場のニーズに応えながら様々な病態の患者さんに対応すべく、5号シリーズまで組成を変更しました。現在では5つの組成、3つの剤型(粉末型、液末型、液型)を取り揃え、多彩なラインナップで約35万人の透析治療を受ける患者さんに寄り添っています。
私たちは透析剤のパイオニアとして、今後も新たな視点での透析剤の開発を通じて、患者さんの「生命(いのち)を支えて」まいります。
- 日本医学会ホームページ より
- 日本透析医学会 統計調査委員会「わが国の慢性透析療法の現況(2022年12月31日現在) 」より
-
扶桑薬品⼯業の想い
-
創業・透析剤開発の歴史